1. 求10篇日语的日记 最好有翻译
は29日、北京で开催されるオリンピック大会は、中国は2008年です。
5つの交流を选択北京は、オリンピックのマスコットとしてです。彼らはペイペイ、jingjing 、huanhuan 、yingyingとniniです。
彼ら言及を"北京歓迎いたします。 "青色のペイペイは、鱼、伝送の繁栄と繁栄と伟大な业绩を、彼らのキャリアです。
黒jingjingは、パンダは、人间と自然の调和の象徴と共存する。赤huanhuanの圣火リレーは、伝送より速く、高く、より强力な五轮精神に基づいています。
黄河yingyingは、チベットレイヨウ祝福-健康になると緑の世界niniは、咽下します。人々の喜びをもたらす、彼らとの友好関系を持っているメッセージが表示さ祝福の平和、中国からの责任をすべての人々からの言叶です。
2. 日语日记翻译
会场右侧には、「お子様エリア」なるものまで存在。
会场右侧,甚至都有“儿童区”。
フロアより1段高くなって、栅で囲われています。
比地板高一段,用栅栏围上。
アミューズのキッズ?や、関系者招待?のお子様がたくさん(笑)
游乐场的孩子?不,应该是工作人员的小孩子有好多,呵呵!
6歳位の可爱らしい女の子が、待ち时间に広场で
六岁左右的可爱的小MM,空闲时间的广场上
「アメアガリ」を振りつけバッチリで踊ってて、
“雨停啦!”挥舞着手绢一边蹦跶。
会场のアツイ视线を集めてました(笑)
会场的视线全被她抢走啦!哈哈!
他にも、いかにも芸能人の卵みたいな子がいて、
另外还有一个,简直就是个明星坯子的小姐姐,
すぐ横には引率の、アミューズのおねえさん(笑)
马上给她拉到一边了。哈哈!
3. 老师让写100多字的日本地震日记,怎么写
北京时间2011年3月11日13点左右,日本东北地区宫城县北部发生里氏8.8级特大地震,东京有强烈震感……
似乎每一个人都知道地震之于日本,就像是家常便饭一样平常;而对地震的恐惧感可以从他们将地震列为日本人“最害怕的4个东西”之首看得出来。正是因为这样特殊的地理环境,使得日本的地震预报水平以及防灾救灾机制在全世界都是领先的。
地震后,我们几乎所有人能想象到的情景都是一片废墟,大街小巷破败一片,毫无秩序可以言,每个人都小心翼翼的警惕着周围的一切。但是在这次的日本地震之后,井然有序是你对这些受灾城市能想出来的最恰当的形容词,无所不在的细节都能让你感受到日本的政府以及公共社会的文明和人性化。强烈地震后,居民们安静有序地地寻找回家的路。他们虽然也会害怕,会恐慌,但是陌生人之间的拥抱就是在给彼此安慰与鼓励,东京的地铁广播中长一直在播放:“东京地铁为延误了您的列车服务而致歉。这是因为一场很大的地震。”
日本对防灾做得好世人皆知,但灾后的井然有序还是让人觉得印象深刻。文明细节是一种习惯,它建立在个人慢慢的养成过程中,但更建立在全社会的集体行动中;在这次日本地震中这些细节表现的尤为明显。那些细节的地方不难看出这个国度文明的影子,与文明给我们带来的震撼
4. 中文翻译成日文.十万火急
私は、ある日の日记からの抜粋を、スピーチのテーマとしたいと思います。题名は~~です。
今日ルームメイトと一绪に、クラス全员を我が家に招いてパーティを开いた。このパーティは以前のパーティとは违っていた。というのはクラスメートが皆违う国から来ているということだ。だから最初は、言叶が通じなかったり、料理の味が违うので、パーティが成功しないのではないかと心配で、少し紧张して兴奋していた。でも、クラスメートが时间通りに続々とやって来た时、见方(みかた)が変わった。
みんなとてもフレンドリーで、国の违いのせいで盛り上がらないということも全く(まったく)なくて、その情热に私は感动した。
料理に関しては、ルームメイトとメニューを作り、冷蔵库に张っておいて、顺序よく作るようにした。私は3番目と4番目の料理を担当した。红烧虾エビの醤油煮込みと水饺子(すいぎょうざ)だ。ついに腕前を披露できたわけだ。でも、実は手料理をふるまうのは初めてで、幸いなことにみんなからはおいしいと言われたけれど、それは运がよかったからで、やはり料理を习っておかねばと思う。
食后は、果物と私の手作りのお菓子を食べながら、それぞれのお国自慢を话し合った。
今日は本当に楽しかった。初めて外国でぬくもりを感じた。初めて家があると感じた。
以上が当日に书いた日记です。私にはこのような団结とぬくもりのあるグループがあることを夸りに思います。このクラスを自分の家とし、クラスメートを家族として、仲良くしていきたいと思います。
また、日本に来てから、一层日本が好きになりました。地下鉄の治安の良さ、清洁な道路、赤信号を突っ切らない人々が好きです。言い争いのない生活が好きです。
この优れた社会环境の中で、国の违うクラスメートと助け合い、やがて理想の大学に进んで、この日本で自分の梦を実现する日が来ると、私は信じています。
スピーチなので、「、」を多く入れました。ここで言叶を切ると、闻いている人がわかりやすくなります。
また、日记は「だである体」(普通形)で书くのが一般的なので、日记の部分は「だである体」にして、内容を强调しました。
その前后の文は、スピーチなので、「ですます体」(丁宁形)としています。
顽张ってね! 加油!
5. 有没有帮写日语日记的大约在100字以里
6月8日 天気:晴れ
今日は ちよど8时に 教室で 英语のクラスでした。それで 私は 7时ごろ 起きました。
中国で 武汉は 一番热いです。よるしければ 凉しいですね。天気予报に よつて、明后日は 雨か 降るそうた。私は 暑い天気が 大嫌いです。
私は 昼が 食堂に 行きました。私は 鱼が 好きではありませんが、私は鱼が食べて行く。
午后の1时から 2时までは 英语テストでした。テストおを 简単にするいいですね。
夜が 私とクラスメートは いつしょに 図书馆に いきました。学生は 无料です。
明日は 授业がですから、私は 11时ごろが 寝ろです。
6. 要做到用日文写日记,最起码要过几级
2级差不多就行了, 会中文你用日语干嘛?
1 级:掌握较高级语法、单词( 2000 字左右)、词汇( 10000 左右),除掌握社会生活中必须日语外,还具备在日本大学进行科学研究的综合日语能力。(学习日语 900 小时)
2 级:掌握较高程度的语法、单词( 1000 字左右)、词汇( 6000 左右),具备一般性的会话、阅读、写作能力。(学习日语 600 小时)
3 级:掌握基本语法、单词( 300 字左右)、词汇( 1500 个),掌握日常生活中常用会话,可阅读及书写简单的文章。(学习日语 300 小时)
4 级:掌握初级语法、单词( 100 字左右)、词汇( 800 左右)、会简单会话,可阅读及书写平易、简短的日语文章。(学习日语 150 小时)
7. 东史郎日记内容提要
我于1937年9月接到由日本国天皇签署的征召令,在京都十六师团二十联队第三中队入伍,参加了曰中战争。日本宣扬这是为“建设王道乐土”、“东洋和平”的战争。对此,我深信不疑,加入了这条战线。当时,我不认为是侵略战争。
但是,我目睹中国农民的悲惨状况深感悲哀,并写了日记。倘若战死,我的日记当然会与我的肉体俱焚,但日记记录了我所见到的战场惨状。回国后,我誊写了部分战地笔记。之所以要誊写并不是为了公开发表,而是作为自己的人生记录留给子孙后代罢了。
五十年后的1987年,京都的市民运动团体举办“为了和平反思战争展”。我应邀参加,出借了日记,是为首次公开。
我的1937年8月至1938年9月的日记已经交由“南京大屠杀遇难同胞纪念馆”主持出版发行。那是我因病退伍回国后带回来的日记中于1940年至1941年期间誊写过的。
本书收录的是1938年10月至1939年9月我在战地写下的原始记录。由于有的部分文字潦草,未及誊写,因此显得有些杂芜。
1987年7月7曰,我和战友一起会见记者,为中曰战争作侵略加害的证言。由于媒体的报道,日本国民全都知道了,我身边亦一片哗然。由是,我被指责为”亵渎英灵”,不断受到右翼的攻击。但我的回答是,日本军队加害于中国人民的事实昭然若揭,理应反省。于是,我被军国主义者告上法庭,在诉讼抗争中度过7七年。
反省过去的侵略加害行为并谢罪是中日友好的基础。本着这一信念,我决定将自己的加害日记在日本和中国都公开发表。
德国人拉贝的日记是救济中国难民的爱的刚己;日本人东史郎的日记是制造难民的加害日记。
东史郎或许永远都会被中国人所憎恨,但我相信澄清事实真相,并深刻反省,是曰中友好的基础,这就是我公开日记的原因。
侵华战争参与者 东史郎
2002年2月29日